大判例

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東京高等裁判所 昭和44年(ネ)388号 判決 1970年9月17日

控訴人 石川幸一郎

右訴訟代理人弁護士 松永謙三

被控訴人 福富愛子

右法定代理人親権者父 福富一

同母 福富ステ

右訴訟代理人弁護士 大島清七

主文

原判決を次のとおり変更する。

控訴人は被控訴人に対し金二〇万円及びこれに対する昭和四二年五月二六日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

被控訴人のその余の請求を棄却する。

訴訟費用は第一、二審を通じ、これを三分し、その一を控訴人の、その余を被控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は「原判決中控訴人敗訴部分を取消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の事実上の主張並びに証拠の関係は、次のとおり附加訂正するほか、原判決事実摘示と同一であるから、ここに、これを引用する。

(当事者双方の主張)

一、被控訴代理人は、後記控訴人の主張はすべて争うと述べた。

二、控訴代理人は次のとおり述べた。

(一)、本件事故による損害賠償に関して昭和四一年四月三〇日加害者たる控訴人と被害者たる被控訴人との間に示談が成立した際作成された示談書には「加害者石川幸一郎、被害者福富愛子当一二年、右愛子未成年につき代理人親権者父福富一」なる記載があり、末尾に作成名義人として被控訴人の父福富一の氏名が記載され、同人の印章が押捺されている。

(二)、右示談書末尾の氏名の記載と捺印は被控訴人の父一、母ステの両名が同席し、両名とも示談の内容を了承したうえで母ステが父一の署名捺印を代行したものである。仮りに父一が現実に右示談に関与しなかったとしても、同人は家事は勿論、親権の行使を含む一切の事務処理を母ステに委ねていたものであり、そのため前記示談交渉を母ステが行ない、父一の名義で示談書を作成したものである。したがって右示談契約の締結についての被控訴人に関する親権は共同行使されたものというべきである。

(三)、もとより、前記示談は加害者たる控訴人と被害者たる被控訴人間に成立したものであって、原判決の説示するような、控訴人と被控訴人間、控訴人と被控訴人の母ステ自身間の二個の和解が含まれているものではない。なお、仮りに父一が前記示談に関与しないために親権の共同行使が認められないとしても、同人は著しく知能が劣っているために親権の行使をステの専行に委ねていたような事情にあるから、親権の行使については民法第八一八条第三項但書所定の場合に該当し、母ステが単独で親権を行使し得べきものであり、したがって前記示談は有効に成立したものと云うべきである。

(証拠関係)≪省略≫

理由

一、被控訴人が昭和四一年四月二七日午前八時頃その主張の如き経過態様の本件自動車事故により右大腿骨骨折の傷害を被り、そのため二回にわたり、その主張の期間上都賀病院に入院し治療をうけたこと及び被控訴人が昭和二八年七月二八日生れの少女で、父一母ステの両親があって右入院中母ステが附添看護したことは当事者間に争がなく、≪証拠省略≫を総合すると、本件事故は被控訴人主張の如き態様の控訴人の過失に起因し、被控訴人の負傷は当初二ヶ月半の治療を要するものとされていたが、前叙のとおり二回にわたり合計一一六日に及ぶ入院加療を要したもので、現在でも、なお、右脚にひきつるような自覚症状があり、些少ではあるが跛行が避けられない状態にあることが認められる。≪証拠判断省略≫。

以上の事実関係によれば、被控訴人が本件事故のため著しい精神上の苦痛を被ったことは見易い道理であるから、被控訴人は控訴人に対し慰藉料請求権を取得したものというべきである(なお、附添費、雑費等の財産上の請求については原審で請求が棄却されたのに、控訴も附帯控訴もないのでこの点には言及しない)。

二、そこで控訴人主張の示談の成立すなわち慰藉料請求権の放棄に関する抗弁について検討する。

(一)、乙第一号証の存在に、≪証拠省略≫を総合すると、

(イ)  被控訴人と控訴人間には昭和四一年四月三〇日付示談書(乙第一号証)が存在し、それには冒頭に、加害者である控訴人と被害者である被控訴人の父一との間に同月二八日午前八時頃本件自動車事故による過失傷害事件について双方話合の上次のとおり円満解決示談成立した旨記載され、ついで控訴人主張の各条項(原判決六枚目表八行目から同裏四行目までに記載された(一)ないし(四)の条項)が記載され、さらに、本件は前記のとおり円満解決示談が成立したので本件事故に因る加害者に対し寛大な処分をお願いする旨及び、今後は双方とも何等異議要求は申立ないし、法律上の手続もとらないことを誓約する旨の文言が記載され、鹿沼警察署長宛になっている。しかして、右示談書の末尾には「加害者石川幸一郎(控訴人)」、(被害者代理人父福富一」なる記載がなされ、各名下にそれぞれ押印がなされているが、福富一の名下の押印は被控訴人の母ステが昭和四一年四月三〇日控訴人の申出に応じてなしたものであって被控訴人の父福富一は全く関知しなかったものである。

(ロ)、右乙第一号証の示談書の作成に関する事情は次のとおりである。当時控訴人は本件事故に因る刑事処分を有利にするため被控訴人側との示談を急いでいた。他方、被控訴人方でも貧困家庭であるうえ、父福富一が知能も一般水準より低く、木工所に勤務して日給八〇〇円程度を得ていたに過ぎなかったので母ステも材木店で日給五五〇円程度の工員として働き家計を助けながら、家事、対外的折衝等一切をとりしきっていた。ところが本件事故に因る被控訴人の負傷のため、同女はとりあえず被控訴人を上都賀病院に入院させ、自ら附添って治療をうけさせるようにしたが、入院治療費の捻出、附添のための欠勤に因る生活費の窮乏の切抜け等に心痛し、とりあえず最少限度の入院治療費だけでも急速に入手したいと煩労していた。そのような双方の事情から、控訴人は事故後ただちに、ステに対し入院費、治療費、附添費等を支弁し、事故により破損した自転車を修理するほか示談金として金五、〇〇〇円を支払う旨を申入れたところ、事故により周章狼狽の上困憊の極にあったステは、前叙のような事情から被控訴人の精神上の苦痛に対する慰藉を受ける方法等の点についてまで思いを致す余裕がなかったので、藁をもつかむような気持ちで控訴人の申入に感謝してこれに応じ、乙第一号証の示談書すなわち控訴人が代書人に依頼し、同人をして示談書と題し、当事者の住所、職業、氏名、年令及び示談の内容を後日、書込めるようにその箇所を空白にした警察署長宛の用紙に所定事項を記入せしめた文書の末尾の夫一の名下に同人の印章を押捺したものであって、その際控訴人側からもステ側からも慰藉料に言及することなく、従ってそのことは話題にも上らなかったのである。

(ハ)、ちなみに、その後ステは本件事故により金五万円を他から借用せねばならない破目に陥ったので、示談のことなど念頭にないまま、人を介して被控訴人に五万円の支払を求めたところ、被控訴人から僅か一万五〇〇〇円しか交付されなかったし、第三者から、その位の金額なら受取らない方がよいといわれて、これを返戻し、本訴を提起した。

以上の事実が認められる。≪証拠判断省略≫。

(ニ)、おもうに、およそ権利の放棄は放棄者においてその権利を認識した上でこれを放棄する意思を表示することによって始めて権利消滅の効果を生ずるものであることはいうまでもない。ところが、乙第一号証の示談書の作成に関する前段認定の諸般の事情によって明らかなように、示談書の調印に際し、被控訴人の慰藉料請求権については、ステはこれを念頭においていなかったし、話題にも上らなかったのであるから右示談書調印の事実から慰藉料請求権の放棄を肯認することは困難である。尤も、さきにみたように右示談書には、今後は双方とも何等の異議要求は申立てないし、法律上の手続もとらないことを誓約する旨の文言の記載があって、右の文言は当事者双方とも以後本件自動車事故についてなんらの請求をもせず訴の提起もしないことを約したかのように読めないわけではない。しかし右示談書は本件事故に関し、控訴人が自己の刑事処分を有利にし、寛大な処分のなされるよう警察署長宛に上申した文書であって、示談に関する部分は刑事事件について控訴人が、加害者として被害者に対して誠意ある善後処置を講じたことを捜査官憲に知らしめるのが主眼である関係上そこに書かれている条項はすべて控訴人側の給付に関するものであることや、不服禁止の誓約文言は前掲示談書用紙に刷られた不動文字であることその他前段認定の諸般の事情に鑑みると右文言はいわゆる例文に属するものであって、右示談書の文言からステが本件慰藉料請求権を放棄したものとみるのは相当でない。

≪証拠判断省略≫

(二)、されば控訴人の示談成立の抗弁は、被控訴人に対する親権共同行使の点(民法第八一八条、第八二五条)に言及するまでもなく、理由がないことが明らかである。

三、そこで慰藉料の額について検討するに、本件事故の態様、被控訴人の負傷、年令、性別、学業のおくれ等諸般の事情に、控訴人の損害賠償の状況、示談金名下に金五〇〇〇円が支払われていることなどの事情を参酌すれば、本件事故により被控訴人の蒙った精神的苦痛に対する慰藉料としては金二〇万円が相当であると考える。

したがって被控訴人の本訴請求は右金二〇万円とこれに対する本訴状送達の翌日であることが記録上明らかな昭和四二年五月二六日から右支払済みまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があり、その余は失当として棄却を免れない。

四、よって右と異る原判決は失当であり、本件控訴は一部理由があるから、原判決を前説示の限度に変更すべく、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九六条、第九二条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 石田実 麻上正信 裁判長裁判官鈴木信次郎は退官につき署名押印できない。裁判官 石田実)

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